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 芹沢けい介の仕事と柳宗悦の民芸理論
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酒井千穂 

 芹沢けい介の仕事と柳宗悦の民芸理論 
(*「芹沢けい介」の「けい」は表示できないためにひらがなにしてありますが、「金圭」という文字です)

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暖簾、ガラス絵、屏風、着物、帯など暮らしの隅々にまで目をむけ、豊穰な模様を創り続けた型絵染作家、芹沢けい介は1895年(明治28年)静岡の老舗の呉服商大石角次郎の七人兄弟の次男として生をうけた。呉服商であったことから幼い頃より布に親しんだ。遊芸を好み、書を嗜む祖父と父をもったことも、その生涯の才能に影響を与えた環境となったのだろう。東京高等工業学校図案科を卒業し、静岡へ帰った彼は、1917年芹沢たよと結婚し、芹沢姓となる。画家を志した青年は、やがて、工芸の道を歩み出す。彼にその行く手を示したのは、民芸運動の開拓者柳宗悦であり、沖縄の紅型であった。

彼は1924年(大正13年)に朝鮮への旅の船中で柳宗悦の論文を読み、感銘を受けた。そのことが彼の生涯の転機となって、その後の彼の活動を大きく支えるものとなったのであった。

柳宗悦のこの民芸運動は日常生活の道具(用)から美を再発見するというものであった。では芹沢けい介は一体この柳宗悦の民芸の理論にどのように共鳴したのか。そしてどのように、その民芸理論を理解し、作品制作を生涯に渡って続けていったのだろうか。或いは、その理論に外れて彼の作品制作活動が矛盾するところはなかったのか。あったのならば、それはどのようにして起こったのか、またそれはどのように彼の活動に表われたか。

ここでは柳宗悦の民芸理論を再考しながら、芹沢けい介の歩んだ工芸の道を、彼の作品制作を辿りながら、そして柳の民芸理論設立の背景を辿りながら考えていこうと思う。

第一章 

柳宗悦の民芸理論のはじまり

1926年(大正15年)に柳宗悦によって発表された「日本民芸美術館設立趣意書」の内容は、誰も認めなかった民衆の日常雑器の美を謳い、それらの下手ものを民衆的工芸即ち「民芸」と規定し、その選択蒐集により美術館は工芸の「正しい美」の標準を具体的に提示する、というもので、「美が自然から発する時、美が民衆に交わる時、さうしてそれが日常の友となる時、それを正しい時代であると誰が言い得ないであろう。私達は過去に於てそれがあったことを示し、未来に於てもあり得べきことを示す為に、この『日本民芸美術館』の仕事を出発させる」と結ばれている。これが昭和の初めから現在に至るまでの日本の工芸界に大きな影響を及ぼし続けた民芸運動の誕生であった。

開拓者である柳宗悦は1889年(明治22年)東京麻布に海軍少尉柳楢悦の次男として生まれた。学習院中等科、高等科を卒業し、東京帝国大学哲学科に入学する。在学中に上級生の志賀直哉、武者小路実篤、里見 らと共に同人誌「白樺」を発刊。また、その頃来日していたバーナード・リーチの影響でウィリアム・ブレイクに心酔し、卒業後に『ヰリアム・ブレーク ー 彼の生涯と制作及びその思想』を著した。大正4、5年、朝鮮半島に旅行、6年、「白樺」の同人とロダン、セザンヌなど西欧の近代美術を内容とする美術館建設を図る。8年、「朝鮮人を想ふ」、翌年「朝鮮民族美術館設立趣意書」を発表した。この頃より朝鮮工芸への接触を契機として後の「民芸」への関心が深まったと思われる。この、度々示された美術館建設への意欲と「民芸」が結合したのが約十年後の民芸美術館設立への見解であり、また二十年後の日本民芸館開設である。

彼の説く「民芸」とは、土着の素材を用い、繰り返しつくられる手慣れた手法で、民衆のために数多く生産される非個性的な実用品である。そこにみられる無事の美、無我の美こそ民芸の美であるということであった。(民芸ー理論の崩壊と様式の誕生より)

1920年代の日常のデザイン思想

ではその頃の日本の日常生活のためのデザイン、あるいは「工芸」の思想とは一体どういったものだったのだろうか。

1920年代は、デザイナーたちが新しい生活様式をデザインし、また生活環境の標準ということを考え始めた時代であった。そして、この時代にデザイナーの職能団体や、新たな意図のもとにグループが次々に生まれた時代でもあった。たとえば、「木の芽舎」や「型而工房」もそうしたグループである。それは、デザインという実践を産業の面に於てだけでなく、文化的な面に於ても社会に認知させようとする意識を映し出していた。ここで、そうしたいくつかの団体に目を向けておく。

たとえば、1926年に、「帝国工芸会」というデザインに関する機能団体が出現している。全体で100を超える構成メンバーで、それまでに類をみない大きな組織であった。その目的とするところは、デザインによる産業の活性化、そして輸出振興であった。しかし、かつての輸出振興が伝統工芸の再編を意図していたのに対し、帝国工芸会は新しいデザインの潮流を取り込もうとする積極性をもっていた。また、そこには、デザイナーの職能意識が反映されていた。彼等が組織のモデルとして考えたのは、1907年にドイツで産業家、芸術家、建築家、デザイナー達によってドイツ製品の量的、質的向上をはかるために設立されたドイツ工作連盟であった。・

帝国工芸会の機関誌『帝国工芸』は、後に商工省工芸指導所から出される『工芸ニュース』と共に、デザイン専門誌として同時代のデザイン界に少なからぬ影響を与えることになった。

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1926年、グループ「无型」(ムケイ)が結成された。このグループは帝展に出品される工芸に代表されるような、展示のための作品から、再び実用性をもつものにすることを主張した。

また、1927年、金工の工芸作家が中心となった「工人舎」が結成された。彼等もまた実用性を主張した。

その後、結局、「无型」は再び展覧会展示むけの作品が多くなっていく。そこで、再び更に「用即美」を強く主張して、1935年に「実在工芸美術会」が結成された。実在工芸美術会は「无型」の考え方を引き継いでいた。无型、工人舎、実在工芸美術会はいずれも実用性を持った工芸を主張した訳だが、実際に創られたものの多くは、アール・デコやロシア・アヴァンギャルドのデザインなどの同世代のデザインを引用したものだった・。従って、彼等が造り出したデザインは、同世代のデザインの世界的な傾向を感じさせるが、それは必ずしも新しい生活の本質を描いている訳ではなかった。

柳宗悦の民芸運動

伝統的な工芸の領域で若い作家達が用の美を主張して、新しい表現を模索したのに対し、日常(用)の中から美を再発見するという逆の方向を取ったのが柳宗悦の民芸運動だったのである。

柳は伝統工芸の様に歴史的に支配階級の使ってきたものではなく、民衆の使ってきた日常的工芸、つまり民芸にこそ、使われてきたことの美しさがあるとした。柳の視点はまた、生産者のものではなく、使う側のものであった。そして、生活の道具の総合的美学を持っていたという点に於て、ウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツに近い考え方を持っていた。柳自身はその影響を否定している・が、モリスからの影響は少なからずあったと言われている。

芹沢けい介は柳宗悦の論文に感銘を受けこの民芸の道を突き進む事になった一人であるが、他にこの柳の民芸運動に賛同した作家は陶芸家の河井寛次郎、浜田庄司、バーナード・リーチ、家具作家の黒田辰秋などが挙げられる。

しかし、柳の説く民芸理論によると民芸の美とは、民衆の為に数多く生産される非個性的な実用品であり、その中に見られる「無事の美」、そして「無我の美」こそがそれであるのだから、このような個人作家の存在は、彼の民芸理論を危うい立場に自ら追い込んでしまうことになる。民芸的芸術家の存在は彼の理論に基づくならば、有りえないのである。

それでは柳はどのようにして彼に賛同し民芸運動に携わったこの作家達の存在を肯定したのだろうか。彼は工芸を創る工人についての認識を特徴的に位置付けている。彼の著書である『民と美』のなかで彼は「無学な職人達に美を解せよといふのは無理ではないか」と述べている。また、彼の著『工芸文化(美の国と工芸)』の文中でも工人、作る人への認識はこのように記されている。「彼等自らの力がそれ(素晴しい作物)を産んだのではない。他力に助けられて様々な不思議を演じたのである」「工人達自らの力はない。だが他力に助けられる時、彼等はどんな天才かと見間違へるほどの仕事をする。」(同)
彼のこの見解によれば、民芸の美を作り出した当の人々には、美というものが解せないのであり、また当然そうでなければ民芸の美は生み出すことが出来ないのである。作る人、工人は自分の作った物の美から隔てられていなければいけないのである。それは何故なら、民芸の美とは、創造性の認められない、「無我の美」であって、また「無事の美」であるのだからである。美を意識しない無心な作業の中からこそ、その種の美が誕生するとされていたからである。また、工人達の素晴しい仕事をうみだす才能は彼等自身のものではなく、彼のいうところの「他力」によって得られたものなのであった。

それでも、その創造性を認められた例外があった。それが柳の民芸理論の中で存在し得ないはずの個人作家なのだった。柳の著したものを読むと、彼等は伝統に従って物を作り続ける工人達とは明らかに区別されていた事が明確になる。その、柳によって創造性を認められていたわずかな個人作家達への彼の認識も特徴的である。「只僅かの『選ばれたる者』のみが創作の扉を開くことが出来る。只天才のみが正しい個人作家である。」これは『工芸の道(来るべき工芸)』に記されている。この「選ばれたる者」が彼の民芸運動に賛同した作家達の事であることは確かだろう。河井や浜田、また芹沢けい介も後には柳のいう天才として、或いは選ばれたる者として認知されていたのだろう。彼等民芸運動の同志こそが彼の言うところの「選ばれた者」、天才達なのであったと思われる。彼等、柳の同志である個人作家達は、民芸派と呼ばれていた。しかし柳によって、その創造性を認められた芸術家は民芸派と呼ぶよりももっと正確に言うならば、民芸を学び、民芸に終わらなかった作家と言う事になるだろう。なぜなら、柳の理論に従うならば、民芸的芸術家は存在しえない筈だからである。民芸は土着の素材と繰り返し作られる手慣れた手法、民衆の為に大量生産される非個性的実用品なのであって、その美は無事の美であり、また無我の美なのである。

第二章

[1] 芹沢けい介の仕事と民芸運動

芹沢けい介が工芸の道を歩むきっかけとなったのは先に触れた1924年(大正13年)に朝鮮行きの船中で読んだ柳の論文「工芸の道」であった。その後、1928年(昭和3年)に東京の上野公園で開かれた大礼記念国産振興博覧会に特設された日本民芸館で沖縄の紅型に出逢ったのであった。後の昭和13年には柳宗悦ら同志と共に沖縄に渡って、更に深くこの色彩美豊かな型染を研究している。こうして芹沢の型絵染の仕事が進められて行った。彼が型絵染作家の方向へ歩き出したのは、この東京、上野公園で開かれた大礼記念国産振興博覧会に於て沖縄の紅型との出会いがきっかけとなっていると思われる。ここでは芹沢自身も静岡県茶業組合連合会の参加の為に、間割、展示、陳列等の仕事を受け持っていたのだった。

では、それまで彼はどのような活動をしていたのだろうか。東京高等工業学校図案科を卒業した芹沢けい介は静岡へ戻り、結婚。当時は写生ばかりして暮らしていたと記録されている。その後世の中の景気が悪い中、大田三男と図案社を始める。静岡県立工業試験場に勤める。

大正9年大阪に移住。足袋屋の懸賞、大阪府立商工奨励館のポスター募集に入選、勤務することになる。主に広告図案、商業図案の係であった。よく、大阪の業社を相手に展覧会をしたり、講演したり、外国の図書を調べて報告したりする。商業デザインの懸賞に度々入賞する。

大正11年、静岡に再帰省する。静岡県立工業学校と職業女子校に嘱託として勤務。『主婦之友全国手芸展』に出品、入賞する。

このように彼は数々の懸賞や展覧会で彼の才能を発揮し、活躍を既に遂げていたのである。そして、型絵染めの世界を自らの道として進む事になったのは、昭和3年に紅型に出会ってからであったという。

ではなぜ彼は「型」という制約された工芸の道を選択したのだろう。彼は型染めという染色の世界でもよく不自由とされているものをどう捉えていたのだろうか。ここに彼の残した型染について語られた言葉がある。これは昭和23年に雑誌『婦人画報』2月号に掲載された『型染の工房から』の書き出し部分である。

「ー型染には過剰な技術がない。色は単純に煮つめられている。質は見せかけがなく堅実で、模様は絵画から離れて型紙の必然から生まれた模様になりきっている。このように型染には、手仕事の根源的なものから発する美しさがある。」・

この彼の型絵染めに対する見解は、柳の民芸理論と同じように繰り返しの作業と地道な作業の中から生み出される美があるのだということを型絵染めの中に見い出した作家自身の確信の念が読み取れる。

しかし彼は最初から型絵染の道に就いていた訳ではなかった。直に布に絵を描くことから始めて、更紗、蝋纈、筒描きを経て、沖縄の紅型へ行き着いたと言われている。こうして、芹沢は昭和13年の柳宗悦率いる同志と共に沖縄に渡航し紅型に傾倒していくことになり、その事は彼の行った生涯の仕事に影響を与え続けたのであった。

彼のそれからの生涯に渡る作品制作は、建築、インテリア、装幀、造本、グラフィック、ガラス絵大小を問わずあらゆるものに目が向けられており、多作の人と呼ばれる程である。

それから後、芹沢けい介は1956年(昭和31年)に型絵染めで重要無形文化財保持者に指定されたが、もし、彼が柳と出会わなかったとしても、彼のデザインの才能は、先に挙げた数々の懸賞や展覧会での入賞の例を見る限りでも、また彼の周囲に向けられる好奇心や洞察力からしてもそれまでに日本に存在しなかった新星として、その洗練された彼の造形感覚と、高く評価されるその技術をもって日本の染色界を代表する巨匠と呼ばれるものにしたのではなかっただろうか。

さて、彼は柳の民芸運動の影響化の下に入った中で、彼の師であった柳にはどう理解されていたのだろうか。1973年に大阪梅田、阪急百貨店にて開催された「芹沢けい介ー人と仕事」展にあたって作成された図録のなかに柳が記した芹沢についての文章が掲載されている。「僕は同君の未来を心に描いてゐる。吾々の間にどうあっても居て欲しい人である。日本の工芸界には今、人が無さすぎる。技巧の人のみふえても仕方がない。芹沢君の様な人が働いてくれなければ困る。」「芹沢君のものは、くづれた味ではない。渋さに匿れようとはしてゐない。明るいまつすぐな道を歩いている。それは大ざっぱな、投げやりの仕事ではない。こまかな心盡しが働いている。・・・穏やかで平和である。もの静かな同君の性質がそのまま活かされている。」・

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[2] 芹沢けい介の工芸の道

柳の民芸理論に対し最初は賛同していたが、昭和10年代半ばからその理論に疑問を持ち始めて後、民芸派を離脱した富本憲吉は「模様から模様を作らず」という創造性に本質を置く創作家である自分の思想を貫いた人であった。

彼のこの言葉に影響を受け、それに従って芹沢けい介が写生に没頭したのは富本が国画会工芸部の中心人物であった頃からであったようだ。芹沢はその写生をもとに、自分固有の独創的な模様を生み出す姿勢を作っていった。この写生の数々は後の戦災によって焼失してしまうのだが、本人曰く「写生が商売のようだった」程、路傍の雑草や塀に絡まる蔓などを丹念にスケッチしていたらしい。

昭和4年、彼は初めて国画会に「杓子菜紋藍麻壁掛」 を出品し、それがN氏賞を受賞する。それは植物写生の素描に蝋伏せ藍染めで、古染め付けが遠くに見えている。これは芹沢の型染め以前の方法で、生地は絹紬。これが、彼の染色の仕事の幕開けとなるものとなった。国画会へ出品を続けるうちに本格的な型染めに入り、作品も鑑賞的なものから、実用的なものを手掛けるようになっていった。

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柳宗悦は彼の著書『工芸の道』に於て「工芸には総合がなければならぬ。何故なら工芸品は単独に暮すものではないからである。」と語っている。この言葉から考えるならば、芹沢けい介は師の思想に当てはまる工芸においての総合的な観点を持ったアート・ディレクターとしての資質を備えた人であるといえる。彼の創作の意識は様々なものへと向けられているからである。それは彼が古作からの転用をしないという創作家としての創造意欲のなかから生まれたさまざまな角度からものを見る観点である。しかし、柳の民芸理論はこれとは相反する、美が生まれるには作る人が無我の境地でなければならず、また無作為に作られたものにこそ、その美があるのだという性質を主張したものであった。これは伝統工芸から技術を吸収し、それを活かして創造性に繋げるというものではなく、伝統技術の継承に止まったものである。彼の言うところの工芸の総合性と言うものは芹沢の視点と同じ意味を成していたのだろうか。

柳は昭和3年の上野公園での大礼記念国産振興博覧会に特設された「民芸館」の建物の設計をし、民芸運動の同志の河井、浜田の作品、黒田辰秋の家具などを展示した。また、芹沢けい介も静岡県茶業組合連合会の為の展示や間割、陳列を受け持った。このときは柳は、室内空間、建築全体に対しても総合的な工芸というものの意識をもっていたと考えられるし同人達の役割に関して見ても体系としての民芸運動を築いていたのではないだろうか。しかし彼のその後の工芸の捉え方にはそのような体系は見い出せない。陶磁器、家具、染色など工芸という大きな枠組みに対しての見解はあったが、それがどのような関連を持っていたのか、日常生活のなかで、どのような役割を果たしたのかということは、あまり意識されず、個々の物自体の美しさの方に彼の視点は集中したのである。「彼は古い民芸品の熱心な蒐集家であったが、それは時代別、用途別、手法別というものではなかった」といわれている。・

彼は工芸の総合性を説きながらも、それをひとつひとつのものが相互に関連する物として見ていなかった。彼はその後、個人作家の突出した個性美や個人道への排撃、協団制作による秩序美や制作者の心構えを主張することに重点を置き、工芸の総合性については語らなくなっている。

むしろ彼のなかでは工芸は個々の分野に分かれており、工芸全体をひとつの体系として捉えるのではなく、各分野ごとに独立したもの同士が集まった状態を総合と呼んでいたと言えるのではないだろうか。

それは、彼に賛同し民芸運動の中心となった他の個人作家にも影響を与えていると思われる。彼がそのようにそれぞれをひとつの制作分野で完結するものとして捉えていたように、作家個人は、師である柳とのつながりをもっていたが、他の同人達との民芸派としての共通性や関連性を全体にはあまり持たなかった。実際彼等は柳の理論どおり、作る人として個々に活躍した。その事は、そこに横の繋がりや結束があったからという訳でもなく、民芸運動に加わっていた事実とはあまり関係は無い。

材料や、工程が伝統的であり手仕事であることや工芸が総合性を持っていると言う点では芹沢が彼の理論に共通したものがあることを認めることができるとしても、柳の行った蒐集や日本民芸館の館内の展示品の関連性等を見ると、彼の示した工芸の総合性というものは芹沢が仕事へ向けた広い視線とは違った見解であったと考えられる。 その点に於て芹沢けい介の行った仕事を全体的に見渡して見ると、柳が考えた工芸の域からは脱したもっと広い視界が広がっているように感じられる。その多岐にわたる日常身辺への目の向け方は、彼の作品の制作数や彼独自の色彩と模様の世界をいろいろな角度から探し求めた軌跡からしても、これは工芸であれは違うというような枠を取り去った、日常身辺にある全てのものを、それぞれが独立した存在ではなく、お互いに関連をもつ一部として考えられていた事の表われである。彼は工芸品の様々な分野を総合的に体系づけているといえないだろうか。他の民芸派の個人作家達には工芸の道の中でも彼等の専門とするジャンルというものが存在していた。勿論、芹沢けい介は型染という専門分野を歩んだが、彼は、展示から、室内そのものまで、ときには建築外装にまでその総合性を求めた、室内全体を一つの相互関係のあるものとした意識をもっていた人であったといえる。これほどに体系的に民芸という概念を捉えた作家は民芸運動に賛同した他の個人作家達のなかには見られなかったことなのではないだろうか。

芹沢けい介が工芸のあらゆる分野を総合的に体系づけていたという事は彼がどのような活動をしていたのかを振り返ってみる事で納得できるだろう。繰り返すが、大小、平面、立体を問わず、彼の目が日常生活における身辺の様々なものへ向けられていることは彼の作った作品の数々からも理解出来ることである。では、その他に彼が工芸に対し、体系的意識をもっていたことが裏付けられる例として、どのような事が挙げられるのかを見ていきたい。

1933年(昭和8年)に銀座『たくみ』工芸店開店に際して店頭の大暖簾、内装の設計を行っている。この大暖簾は富本憲吉によってデザインされたもので、染めを芹沢が担当した二人の合作といえるものであった。1935年(昭和10年)12月新たに日本民芸館が建設された折、そのための陳列家具の設計を行う。この民芸館は柳が1926年(大正26年)に発表した「日本民芸美術館設立趣意書」がもとになったもので、彼等民芸運動の同人達にとってこの民芸館の実現は画期的出来事であった。1961年(昭和36年)大原美術館工芸館第一期陶器館落成。この工芸館の設立の提案は大原美術館、大原総一郎氏によってなされたもので、大原美術館の手持ちの倉庫を改造し、それをバーナード・リーチ、富本憲吉、河井寛次郎、芹沢けい介、棟方志功、浜田庄司の為に、それぞれ一館ずつあてて展示するということであった。その際、それらの改装や陳列について、すべてが芹沢けい介にまかされたのだった。同年、柳宗悦逝去。芹沢は、日本民芸館の中に告別式場の祭壇を民芸同人とともにしつらえた。1964年(昭和38年)大原美術館第二期棟方、芹沢館が完成する。1972年(昭和47年)にパリのレストラン「じゅん」の店内内装を頼まれる。これはパリに日本的なレストランをつくるという話であり、その内装として、店のマークや暖簾、店内へ飾る備品を一切任されることになったのだった。1976年(昭和51年)パリ国立グラン・パレに於て、「Serizawa」展が開催され、大成功を収める。このときも彼はその館内の展示や陳列、その構成を自らの手で行なった。

彼の仕事は染色の分野だけに終わる事なく、内装、展示そして建築設計にまで及んでいる事がこの年譜だけを見る限りでも理解できる。大原美術館工芸館は彼がその手腕を存分に発揮したといわれたものである。水尾比呂志氏はこう語る。「そして芹沢氏のデザインのみどころは、これらの館の壁面や展示調度・照明具などが、おのずから健やかで美しい工芸品となり得ているところにある。飾り棚・覗きケース・扉・手すり・電燈などのそれぞれが、氏の立體的作品となり切ってゐる。」・このように言われているように、彼には建物から作品の陳列ケース、照明に至るまで建築物の全体を一つの統一された空間の体系として捉えられる視点があった。だから、展示調度、照明具がおのずから健やかな工芸品になり得ていると感じられるのではないだろうか。

また彼は自分の個展に於ても自ら展示、陳列をおこなった。芹沢けい介彼は度々、自身の個展で、或いは依頼をうけて展覧会の展示、陳列を手掛けたが、その仕事とは展覧会という全体をひとつの作品として見る彼だからこそできたことなのではないだろうか。彼には、個々の彼の作品だけでなくそれらを取り巻く空間自体をひとつの体系として捉えるヴィジョンが備わっていたのだ。その広い物の見方が、生涯に渡る彼の作品制作に繋がっており、外国での個展など国際的に認められる作家となった要因のひとつにもなったであろう。

おわりに

芹沢けい介は柳宗悦の著『工芸の道』に感銘を受けてから、彼の民芸運動の同人として工芸の道を歩んだ人であったが、ただそのとおりにその理論に従って型染めを生涯の仕事としたのではなかった。柳宗悦が彼の民芸理論のなかで打ち出したものは、民衆の生活に即した手工である民衆的工芸、即ち民芸であって、それと同時に個人作家は名と自我と作為にとらわれるが故に真の美を生み得ないといういうこと、また、ものが美しくなるのは、美術的であるのでなく、工芸的である時においてであって、美術文化より工芸文化の発展こそが将来の方向でなければならない、機械生産によって人間味をうしなった日用品のなかに、再び手工の良さを見直そうという事などであった。

芹沢けい介は柳の理論に賛同し、民芸派の一人として世間に認識されていたが、彼は柳の理論では認められない、創作家としての、作品を作り出す自身の創造欲というものを素直に大切にし、また富本憲吉と同じく古作からの転用をしないという基本的な態度を持っている人であった。そのことは彼固有の、独創的な模様を作り出す姿勢へとつながり、またその姿勢が、彼の作品のモチーフとなり得る日常身辺のあらゆるものへの観察力と、好奇心へと導いたといえる。これは柳が打ち出した、日常の中(用)から美が生まれる。という民芸の基本理念にも従っている。

柳は作家の存在を工芸と切り離し、彼等の創作欲、そして美意識というものを認めなかった。無我であること、無心であることのみから民芸の美がうまれるとした。また、その美を産み出したのは作家ではなく、美は「他力」によって産まれるものとした。この彼の考えは作家と作品を切断し、伝統的な技術から吸収したものを創作意欲に繋げて独自のものを作り上げるのではなく、吸収したものをそのまま職人の技としてうけつぐに留まるというものになっている。

あらゆる視点をもって、日常生活空間を見渡した芹沢はこの結果、彼の作り出す作品に分野という枠を作らず、いろいろなものが相互に関連しあっているという空間自体にたいする総体的な体系意識をもつことになった。工芸全体を体系づけていた彼は、その才能とセンスを展示や建築設計、内装陳列の方面でも発揮することになったのであった。

これが彼の柳の民芸理論から突出して、柳よりも工芸というものに広い視界を持って接し、民芸をこえた芸術家となる要因になったのではないだろうか。

芹沢けい介の仕事はこれからも「多作のひと」と題されながら、世に紹介されていくことだろう。そして、彼が民芸派として柳の民芸運動に共鳴し、彼の工芸の道を歩んだことも語られていくにちがいない。 

脚注

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・柳は「私がラスキンやモリスを熟知するに至ったのは実に最近のことに属する」と語っている。『工芸の道』柳宗悦

・・『芹沢けい介型紙集』より

・これは雑誌『工芸』第24号に掲載に掲載されたものでこのまま図録に掲載されたものである。

・『民芸ー理論の崩壊と様式の誕生』出川直樹・新潮社より

・芹沢けい介人と仕事展図録より

参考文献

『芹沢けい介集・別巻』求龍堂

『芹沢けい介型紙集』

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『芹沢けい介全集』1巻から24巻 中央公論社

『工芸の道』柳宗悦 日本民芸協会

『工芸文化』柳宗悦 日本民芸協会

『民と美』柳宗悦 日本民芸協会

『手仕事の日本』柳宗悦 日本民芸協会

『芸術の複製技術時代』柏木博 岩波書店

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